Really Spraying Something (1998)



雑誌『AFTER HOURS』07号掲載の、1998年8月22~23日にかけてブリストルで開催されたグラフィティのコンベンション『WALLS OF FIRE』に関する、ブリストルの情報誌『Venue』423号からの翻訳記事。
really spraying something
text by John Mitchell (Venue)
テレビをつけると、どのCMも1978年のブロンクスのストリートの景色かと思うようなものばかり。発展的なヒップホップとグラフィティの映画『WILD STYLE』は再発され、アディダスを着たオールドタイマーRUN DMCでさえも、83年にリリースされた曲とともに楽に金の入る仕事にありついている。誰かがどこかでオールドスクールのヒップホップに手を加え、大きくなって戻ってきた。今を輝くステイタスの中、ブリストルは予測できないファッションに挑むヒップホップとグラフィティ文化を結びつけているようだ。
85年の7月を振り返っても、街のグラフィティ・シーンは非常に激しく、『ブリストルのグラフィティ・アート』と題した展覧会がギャラリーで行われるほどだった。そこでは地元アーティストの3DやZ BOYS、BOMBSQUADによる作品がフィーチャーされ、さらに地元のヒップホップ・クルー、THE WILD BUNCH(のちのMASSIVE ATTACK)が音楽で参加した。ちなみに、ブリストルの生活を愛する人たちはそのようなイヴェントに興味を持っていなかったが、そんな中でも、10代のヒップホップ愛好者たちには支持された。たとえばGEOFF BARROWはひとりで地元ポーティスヘッドから出てきていた。
80年代後期まで、街の壁はグラフィティで覆われ、その作品の素晴しさを称えてポストカードのセットが出たほどだ。この活動の中心は、バートンヒル・ユース・センターの周辺だった。ここで若いアーティストはリーダー、JOHN NATIONの勧めで自らを表現するスペースを与えられた。89年、アンダーソン作戦と呼ばれた警察の秘密取り締りで、72人のアーティストが損害罪で逮捕された。警察は、ユース・センターにスプレーすることをNATIONが認めていた事実を掴み、彼自身も損害罪を扇動していたとして罪に問われた。彼は不法な場所へスプレーすることをアーティストたちにそそのかしていた。NATIONは無罪放免になったが、中には裁判にまで及ぶケースがあった。結局、何の刑にも処せられなかったが、罰金は課せられた。コミュニティ・サービスと刑務所に長く入らなければいけないかもという不安は、アート・アナーキストたちを思いとどまらせるのには十分だった。そしてグラフィティのシーンはアンダーグラウンドへと固く閉ざされてしまった。
毎週末行なわれるストリート・アート・フェスティバルを見てみれば、いまやブリストルはイギリスのグラフィティ地図の中心に再び位置されようとしているのが判る。イギリス中のトップ・グラフィティ・アーティストたちが、400メートルに広がる壁面にペイントし、それが少なくとも18ヵ月の間、ブリストル2000の会場をぐるりと囲むように展示される。HOMBRE RECORDSからヒップホップとファンクがBGMとして、ニューヨークのB-BOYクルーNEXT LEVELがライヴ・ブレイクダンスで参加。フェスティバルが来たことで、ブリストルのアーティストたちが再び国を揺るがす時もやってきた。今年のグラストンベリー・フェスのダンス・テントは、ブリストルのアーティストたちによって飾られた。ブリストルを拠点に活動している集団FANTASTIC SUPER HEROES(FSH)は、今年のアシュトンコート・フェスのジャズ・テント脇の壁を担当した。なかでも23歳のPARISは、新しいオーディエンスにグラフィティを見てもらういいチャンスだと考えている。「グラストンベリーを手伝ったときは、グラフィティのいち部分を作るというのではなくて、僕らの技術が新しいものを作り出し、まさにステージのための環境を作るという感じだった。みんな変わった環境の中で僕らの作品が見られるということで、僕らのために扉は開かれ、誰もが作品にアクセスできるようになったわけだ。人はエゴだって言うかもしれないけれど、みんなが僕の作ったものに感服している姿が見れるのは嬉しいよ」。
PARISにとってグラストンベリーやアシュトンコートのような場で作品を作れるということは、言葉で表現することが難しいようなジャンルも可能にしてしまう。「固定観念で僕らのアートワークを見るのは間違ってる。だって、僕らはアーティストでインディヴジュアルだから」。
FSHに属する27歳のDICYは、グラフィティをテーマにしたスケート・ウェアのデザインを仕事にしている。「不法に街の壁にスプレーしてしまわないためにも、僕はこれで生活しているよ。オランダやドイツみたいなところにはまだハードコアなアンダーグラウンドのシーンがあって、みんなハマっているみたいだけど、それは古いやり方さ。もし僕らがこの歳でそれを続けていたら、僕らが関心を持つ何かに生活を発展させることはできないだろう。タギングや違法な面っていうのも決して捨てることはできないけれど、僕ら自身のために、この世の文化のためにもっと世の中にアピールして、スプレー缶は単なる道具ではなくて何かがあるんだっていうことを分からせないと」。
アメリカのオリジナルなグラフィティに影響されたPARISのようなアーティストは、決して見くびられるようなことはない。「僕らはまだニューヨークの巨匠たちの足跡を辿っているだけだから、ほとんどの発想は彼らがやってきたことに基づいている。この文化の基盤のすべてさ。タギングから始めて、若い子たちが言葉を作り出すように、ポップや漫画の要素を取り入れながらそれをアートに発展させていった。それ以来、僕らが知らなければいけないことは多様化した。けれど、後世に伝えられ発展しながらも、このスタイルがどこから来たのかも忘れてはいけない」。
このスタイルをキープしている元祖ニューヨークのアーティストたちだけでなく、ブリストルを基盤にしたスプレー・タレントも素晴しい伝統を引き継いでいる。「ブリストルのアートはいつも力強いスタイルがある。ブリストルにはステンシルを使ったものや、影を用いたものなど、新しいアイディアがあふれている。みんなオリジナルなことをやっていたよね」とDICY。
「INKIE、3D、SP27、CHAOSやSHABなんかは特に本物のスタイルを築いていた。それも警察の手入れがすべてを終わらせてしまった。今では健全なものになりつつあるけれど、決して80年代のあの頃のようなものは生まれないだろう。出てきたところで、またさらに厳しい取り締りが行なわれるだけだから」とはPARIS。
さて、ブリストルの元祖グラフィティ・アーティストたちはこの新しい世代をどう捉えているのだろう? 「素晴しいと思うよ」。MANIC STREET PREACHERSのリミックス作業が一息ついたところで3Dは語った。「ブリストルはいつだってイギリスのグラフィティ・アート史の真ん中にいなくてはいけないんだ。本来メッセージを持っているはずの、壁に絵を描くという行為の代わりにマスターベーションのようにタギングすることで、質はひどいものになってきた。自分の名前をただ壁に描くなんていうのは、エゴ以外の何でもない。それが僕がグラフィティに飽きて、もうしゃめて何か他のことを決心したきっかけなんだ。壁に名前を描くなんてことは誰にでもできる。そこには忍耐力も、才能もリスクも……本当の勇気も、何もない」。
「みんな批判的な目で僕のことを見ているよ。すっかりその世界からは離れてしまったからね。でも、そもそもグラフィティは飾るたものものじゃなかった。アルファベットを使った表現で、それは文字そのものだった。僕は、人の文字の形ももっと抽象的で装飾的なものにしたいと思った。もしグラフィティに欠点があるとすれば、それは決まった型があまりにも強く存在するってことだね」。
ブリストルのアーティストで型にとらわれず、誰からも非難されていない人といえばINKIEだ。3Dの弟子として、彼は84年にスプレーを始め、80年代後期にはバートンヒル集団のベテランになった。89年の世界選手権で2位に輝き、ニューヨーク、パリ、オランダに招かれた。今では世界中のグラフィック業界で彼の作品を見ることができるし、グラストンベリーのダンス・テントの一部を手がけるなど、スプレーも続けている。
彼はインカ芸術や古いイギリスの書体、基本的なテーマを持つ新興芸術など、普通ではできないような発想のスタイルを好んで用いている。「もし何か人と違うことがしたいと思ったら、絵を描けばいい。レタリングは好きだけど、それは今ここですべきことじゃない。振り返ってみても、目立った作品を見ても、みんな同じようなスタイルの絵ばかり描いている。3日間費やしたところで誰の目も惹かないようなものだ。すべてはオリジナリティだ。人と同じことをしてもオリジナル・アーティストにはなれない。僕は誰か他の人が描けるような絵に時間を費やしたくはないね」。
グラフィティは今、あまりにもたくさんの取り入れていて、ひとつの方向に持っていこうとするのは簡単なことではない。『WALLS ON FIRE』展は、オールドスクールなものから印象派に至るまでのどのスタイルでも取り入れたものになるだろう。それにテロリスト対策のセキュリティを破り、地下鉄車両にスプレーするロンドンのアート・ゲリラからなどのアプローチも加わる。『WALLS ON FIRE』では400メートルあまりの壁の一区画にあるINKIEとBANKSYのコラボレーションが最大の注目だ。
BANKSYは彼の育ったイーストンの壁にたくさんの作品を残してきた。街の中心にもステンシルを使ったスタイルのものがある。彼は、真のグラフィティとはストリートのルーツと切り離すことができないものだと語る。「もしみんながそれを理解してくれて、自分の首を危険に晒してでも、何かを作り出そうという努力さえあれば、エネルギーとガッツを持つことができるよね。イーストンのエリアはその道を進んでいるんだ。僕の作品群もそれを祝っているよ。僕はイーストンに一生懸命ペイントする。もし他のエリアでも誰かが必死でペイントしたら、この国はすっごいカラフルになるのにね」。

関連記事
■CHILDREN OF THE CAN
text by John Mitchell (Venue)
テレビをつけると、どのCMも1978年のブロンクスのストリートの景色かと思うようなものばかり。発展的なヒップホップとグラフィティの映画『WILD STYLE』は再発され、アディダスを着たオールドタイマーRUN DMCでさえも、83年にリリースされた曲とともに楽に金の入る仕事にありついている。誰かがどこかでオールドスクールのヒップホップに手を加え、大きくなって戻ってきた。今を輝くステイタスの中、ブリストルは予測できないファッションに挑むヒップホップとグラフィティ文化を結びつけているようだ。
85年の7月を振り返っても、街のグラフィティ・シーンは非常に激しく、『ブリストルのグラフィティ・アート』と題した展覧会がギャラリーで行われるほどだった。そこでは地元アーティストの3DやZ BOYS、BOMBSQUADによる作品がフィーチャーされ、さらに地元のヒップホップ・クルー、THE WILD BUNCH(のちのMASSIVE ATTACK)が音楽で参加した。ちなみに、ブリストルの生活を愛する人たちはそのようなイヴェントに興味を持っていなかったが、そんな中でも、10代のヒップホップ愛好者たちには支持された。たとえばGEOFF BARROWはひとりで地元ポーティスヘッドから出てきていた。
80年代後期まで、街の壁はグラフィティで覆われ、その作品の素晴しさを称えてポストカードのセットが出たほどだ。この活動の中心は、バートンヒル・ユース・センターの周辺だった。ここで若いアーティストはリーダー、JOHN NATIONの勧めで自らを表現するスペースを与えられた。89年、アンダーソン作戦と呼ばれた警察の秘密取り締りで、72人のアーティストが損害罪で逮捕された。警察は、ユース・センターにスプレーすることをNATIONが認めていた事実を掴み、彼自身も損害罪を扇動していたとして罪に問われた。彼は不法な場所へスプレーすることをアーティストたちにそそのかしていた。NATIONは無罪放免になったが、中には裁判にまで及ぶケースがあった。結局、何の刑にも処せられなかったが、罰金は課せられた。コミュニティ・サービスと刑務所に長く入らなければいけないかもという不安は、アート・アナーキストたちを思いとどまらせるのには十分だった。そしてグラフィティのシーンはアンダーグラウンドへと固く閉ざされてしまった。
毎週末行なわれるストリート・アート・フェスティバルを見てみれば、いまやブリストルはイギリスのグラフィティ地図の中心に再び位置されようとしているのが判る。イギリス中のトップ・グラフィティ・アーティストたちが、400メートルに広がる壁面にペイントし、それが少なくとも18ヵ月の間、ブリストル2000の会場をぐるりと囲むように展示される。HOMBRE RECORDSからヒップホップとファンクがBGMとして、ニューヨークのB-BOYクルーNEXT LEVELがライヴ・ブレイクダンスで参加。フェスティバルが来たことで、ブリストルのアーティストたちが再び国を揺るがす時もやってきた。今年のグラストンベリー・フェスのダンス・テントは、ブリストルのアーティストたちによって飾られた。ブリストルを拠点に活動している集団FANTASTIC SUPER HEROES(FSH)は、今年のアシュトンコート・フェスのジャズ・テント脇の壁を担当した。なかでも23歳のPARISは、新しいオーディエンスにグラフィティを見てもらういいチャンスだと考えている。「グラストンベリーを手伝ったときは、グラフィティのいち部分を作るというのではなくて、僕らの技術が新しいものを作り出し、まさにステージのための環境を作るという感じだった。みんな変わった環境の中で僕らの作品が見られるということで、僕らのために扉は開かれ、誰もが作品にアクセスできるようになったわけだ。人はエゴだって言うかもしれないけれど、みんなが僕の作ったものに感服している姿が見れるのは嬉しいよ」。
PARISにとってグラストンベリーやアシュトンコートのような場で作品を作れるということは、言葉で表現することが難しいようなジャンルも可能にしてしまう。「固定観念で僕らのアートワークを見るのは間違ってる。だって、僕らはアーティストでインディヴジュアルだから」。
FSHに属する27歳のDICYは、グラフィティをテーマにしたスケート・ウェアのデザインを仕事にしている。「不法に街の壁にスプレーしてしまわないためにも、僕はこれで生活しているよ。オランダやドイツみたいなところにはまだハードコアなアンダーグラウンドのシーンがあって、みんなハマっているみたいだけど、それは古いやり方さ。もし僕らがこの歳でそれを続けていたら、僕らが関心を持つ何かに生活を発展させることはできないだろう。タギングや違法な面っていうのも決して捨てることはできないけれど、僕ら自身のために、この世の文化のためにもっと世の中にアピールして、スプレー缶は単なる道具ではなくて何かがあるんだっていうことを分からせないと」。
アメリカのオリジナルなグラフィティに影響されたPARISのようなアーティストは、決して見くびられるようなことはない。「僕らはまだニューヨークの巨匠たちの足跡を辿っているだけだから、ほとんどの発想は彼らがやってきたことに基づいている。この文化の基盤のすべてさ。タギングから始めて、若い子たちが言葉を作り出すように、ポップや漫画の要素を取り入れながらそれをアートに発展させていった。それ以来、僕らが知らなければいけないことは多様化した。けれど、後世に伝えられ発展しながらも、このスタイルがどこから来たのかも忘れてはいけない」。
このスタイルをキープしている元祖ニューヨークのアーティストたちだけでなく、ブリストルを基盤にしたスプレー・タレントも素晴しい伝統を引き継いでいる。「ブリストルのアートはいつも力強いスタイルがある。ブリストルにはステンシルを使ったものや、影を用いたものなど、新しいアイディアがあふれている。みんなオリジナルなことをやっていたよね」とDICY。
「INKIE、3D、SP27、CHAOSやSHABなんかは特に本物のスタイルを築いていた。それも警察の手入れがすべてを終わらせてしまった。今では健全なものになりつつあるけれど、決して80年代のあの頃のようなものは生まれないだろう。出てきたところで、またさらに厳しい取り締りが行なわれるだけだから」とはPARIS。
さて、ブリストルの元祖グラフィティ・アーティストたちはこの新しい世代をどう捉えているのだろう? 「素晴しいと思うよ」。MANIC STREET PREACHERSのリミックス作業が一息ついたところで3Dは語った。「ブリストルはいつだってイギリスのグラフィティ・アート史の真ん中にいなくてはいけないんだ。本来メッセージを持っているはずの、壁に絵を描くという行為の代わりにマスターベーションのようにタギングすることで、質はひどいものになってきた。自分の名前をただ壁に描くなんていうのは、エゴ以外の何でもない。それが僕がグラフィティに飽きて、もうしゃめて何か他のことを決心したきっかけなんだ。壁に名前を描くなんてことは誰にでもできる。そこには忍耐力も、才能もリスクも……本当の勇気も、何もない」。
「みんな批判的な目で僕のことを見ているよ。すっかりその世界からは離れてしまったからね。でも、そもそもグラフィティは飾るたものものじゃなかった。アルファベットを使った表現で、それは文字そのものだった。僕は、人の文字の形ももっと抽象的で装飾的なものにしたいと思った。もしグラフィティに欠点があるとすれば、それは決まった型があまりにも強く存在するってことだね」。
ブリストルのアーティストで型にとらわれず、誰からも非難されていない人といえばINKIEだ。3Dの弟子として、彼は84年にスプレーを始め、80年代後期にはバートンヒル集団のベテランになった。89年の世界選手権で2位に輝き、ニューヨーク、パリ、オランダに招かれた。今では世界中のグラフィック業界で彼の作品を見ることができるし、グラストンベリーのダンス・テントの一部を手がけるなど、スプレーも続けている。
彼はインカ芸術や古いイギリスの書体、基本的なテーマを持つ新興芸術など、普通ではできないような発想のスタイルを好んで用いている。「もし何か人と違うことがしたいと思ったら、絵を描けばいい。レタリングは好きだけど、それは今ここですべきことじゃない。振り返ってみても、目立った作品を見ても、みんな同じようなスタイルの絵ばかり描いている。3日間費やしたところで誰の目も惹かないようなものだ。すべてはオリジナリティだ。人と同じことをしてもオリジナル・アーティストにはなれない。僕は誰か他の人が描けるような絵に時間を費やしたくはないね」。
グラフィティは今、あまりにもたくさんの取り入れていて、ひとつの方向に持っていこうとするのは簡単なことではない。『WALLS ON FIRE』展は、オールドスクールなものから印象派に至るまでのどのスタイルでも取り入れたものになるだろう。それにテロリスト対策のセキュリティを破り、地下鉄車両にスプレーするロンドンのアート・ゲリラからなどのアプローチも加わる。『WALLS ON FIRE』では400メートルあまりの壁の一区画にあるINKIEとBANKSYのコラボレーションが最大の注目だ。
BANKSYは彼の育ったイーストンの壁にたくさんの作品を残してきた。街の中心にもステンシルを使ったスタイルのものがある。彼は、真のグラフィティとはストリートのルーツと切り離すことができないものだと語る。「もしみんながそれを理解してくれて、自分の首を危険に晒してでも、何かを作り出そうという努力さえあれば、エネルギーとガッツを持つことができるよね。イーストンのエリアはその道を進んでいるんだ。僕の作品群もそれを祝っているよ。僕はイーストンに一生懸命ペイントする。もし他のエリアでも誰かが必死でペイントしたら、この国はすっごいカラフルになるのにね」。

関連記事
■CHILDREN OF THE CAN
Comment