BRISTOL - MUSIC & CULTURE

 
 

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THE WILD BUNCH - The Story Of A Sound System #2

DUG OUT logoPART1からの続き) 彼らはすぐに、これらの曲と新たに習得したミキシングやスクラッチのスキルを披露するのにうってつけの場を見つけた。Gがブリストルの〈ダグ・アウト〉で水曜日のレギュラーを確保したのだ。

ブリストルの中心、ブリストル大学のそば、パーク・ストリートに位置する、奇麗とは言えないクラブだった。〈ダグ・アウト〉は70年代からやっていて、地下がクラブ、上の階がバーという構造で、そこには大きなスクリーンがあり、カルト・ムービーや初期のMTVなどを流していた。
「〈ダグ・アウト〉は〈プリンセス・コート〉っていう、ブリストルではかなりオシャレでなかなか入りにくいクラブからちょっと行った角をまがったところにあった。〈ダグ・アウト〉はというと、誰でも入れるようなところだったよ」とマイロは語る。地理的にも下はセント・ポールズ、上はクリフトンへと続く道に位置するというそのクラブは、ワイルド・バンチやそこに集まるクラウドにとっては、まったくあつらえたようにぴったりの場所だった。〈ダグ・アウト〉はワイルド・バンチ自身同様、真ん中に位置していたのだ。間もなく、クラブの方はワイルド・バンチとその仲間たちのホーム・グラウンドとなった。

「僕らは週の3、4日は通っていたね」と語るのは、スペシャル・K。「彼らがプレイしていたのは毎週水曜の夜だったけど、バーが終わる時間になればそこに集まっていた。何年間かそんな生活を送っていたね」。

jam〈ダグ・アウト〉で始めたところ、ワイルド・バンチはとりわけエレクトリックな客層を魅了した。ブレイクダンサーがセント・ポールズのドレッドや、近所の大学生とダンス・フロアを分かち合った。

BBCラジオのプロデューサーとなったマット・ホールは、16歳のまだ若造の頃、クラブによく通っていた。「入り口にはめちゃめちゃ強面の男が立っていて、その身長は6.5フィートはあると思ったよ。で、階段を下りて行くと、じめっとして汚れたクラブがあった。そこにはいつもワイルド・バンチが占領していたピンボール・テーブルがあった。彼らにとっての社交場といった感じの場だったね。僕はただただ彼らに影響を受けていたということを覚えているよ。街にはロンドンに洋服を買いに行ったり、日本のクラブへ飛行機で飛んで行くなんてやつはいなかったからね。彼らは街で一番のクールなやつらだったわけだ」。

ワイルド・バンチが〈ダグ・アウト〉に登場したことは、またクルーの幅をひろげた。そこにはふたつの形があった。ラッパー志望のマイロの古い友人であるクロード・ウイリアムス(後にその名をウィリ-・ウィ-とする)と、野心に燃えるブリストルのグラフィティ・アーティスト3Dことロバート・デル・ナジャだった。ネリ-とマイロとは失業給付金を受ける役所で知り合った。3Dの所有するスペシャル・リクエストの「サルサ・スマーフ」が彼らの友情を堅いものにした。

THE WILD BUNCH records「それから僕は毎週水曜に出かけるようになった。僕とクロードはマイクでちょっとしたラップをするようにもなった。それははっきり言って、みんなアメリカものの真似ごとだった。とても原始的で決してかっこいいものではなかった。でも当時にしてはいい出来だったと思うよ」とは3D。しかしGはマイクを取る様も、客を盛り上げる様子もその長いキャリアを納得させる腕前を見せていたし、ラッパーやグラフィティ・アーティストを取込み、ワイルド・バンチに新しい側面を与えた。

「その頃僕は3Dのことを国内でも有数の詩人であると思っていたし、ラップの才能もあった。フレッシュスキーやサー・ドリューのようなロンドンの再先端をいくやつらを聴いていたから」とマイロ。「このロンドンのやつらは、自然な自信とスタイルでリリックを伝えていた」。

ワイルド・バンチは常にターンテーブルで実験的なことをしようと試みていた。「それはすごくよかった」と3D。「Gはかなりソウル寄りのものをかけていて、ネリーとマイルスはもっと分かりにくいものをかけていた。彼らは今まで誰も試したことのないようなミックスをしていた。レゲエをヒップホップとミックスしたりとかね。僕らがアメリカで手に入れたアフリカ・イスラムやレッド・アラートのテープからネタを使ったりしてたけど、それがまたとてもフレッシュだった」。

彼らのラインナップが増えていき、ワイルド・バンチにとっての平穏な時代がやってきた。1984年、ポップ・グループのマーク・スチュアートは、ロンドン初のラップのクラブ〈タイタニック〉で彼らにスポットを与えた。それはイギリス初のラップのレコードをリリースしたニュートラメントなどのDJたち、ラドブローク・グローヴの連中とのバトルだった。結局マーク・スチュアートの酔っぱらった大声のエコーいっぱいのマイクで終わったわけだが、ニュートラメントとの絆はそこで結ばれた。

TWB 19850511ニュートラメントはワイルド・バンチのイベント、レッド・ハウスにも参加した。それはブレイカーたちやMC、グラフィティ・アーティストたちも参加したウェアハウス・パーティで、2000人の客が集まった。「それはすごいイベントだったよ。警官も遊びにきてたし、とにかくみんながそこに集まっていて、まったく信じられない光景だったね」とマイロ。

毎年恒例のセント・ポールズ・カーニヴァルでの登場で、ワイルド・バンチはまたしても同じような現象を引き起こした。キャンベル・ストリートにあったGとスペシャル・Kのフラットの前にセットを組み、通りの終わりまで、フラットから引っ張りだした電源でスピーカーたちを並べてブロックし、他のサウンド・システムを寄せつけなかった。

「カーニヴァルでは15から20時間くらいのセットをプレイしていたよ」と振り返るのは、当時ティーンエイジャーだったDJクラスト。現在は国際的に成功したドラム&ベースのプロデューサーだ。「その時の彼らのことは良く覚えているよ。システムは15フィートの高さがあって、10マイル離れたところからでもそのサウンドが聴こえてきた。カーニヴァル初日の翌朝、家への帰り道、僕の家はブリストルの反対側だったんだけど、家に着いてもまだ音が聴こえていたからね」。

クラストはワイルド・バンチのオーディエンスを築き、盛り上げた地元の才能あふれるティーンエイジャーのひとりだった。後に自身もミュージシャンとして名声を得ることになる。将来マッシヴ・アタックのメンバーとなるマッシュルームやトリッキーのようにワイルド・バンチに関わって活発な動きをしているものもいれば、クラストやスミス&マイティ、ロニ・サイズ、ポーティスヘッドのジェフ・バーロウのように個人で活動しているものもいた。ワイルド・バンチは重要な影響だった、とクラストは語る。

「彼らは同じレコードを2枚持っていて、ブレイクをカットし、それにラッパーがラップを乗せるということをしていた」。クラストは振り返る。「ふたつのブレイクをカットするというやりかたは、『ワイルド・スタイル』の中でグランドマスター・フラッシュがやっていたのは見たことがあったけど、実際に目にしたのは彼らが初めてだった。よくパーティーに出かけては彼らを見て、家に帰って真似てみたものだよ。当時の彼らは僕たちにとっての青写真のようなもので、断然、彼らが一番かっこよかったよ」。

「みんなよく通っては、マイルスやグラントと関わっているだとか、3Dとはマブダチだとか、言い張っていたものだ。ただそう言えることがクールだった。それがすべてさ」とクラスト。

↑映画『Bombin'』の1シーン。
GRAFFITI ART at ARNOLFINIそれは地元の若者たちだけに限ったことではなかった。感銘を受けた者たちもそうだった。ミュージシャンのゴールディーは、当時ブレイク・ダンサーであり、グラフィティ・アーティストでもあったのだが、1985年、アメリカのグラフィティ・ライターのブリムとバイオと共に『ボミング』というグラフィティ映画の撮影でウォルヴァーハンプトンからブリストルを訪れていたときに、ワイルド・バンチと遭遇している。ゴールディーはブリストルの〈アノフィニ・アートセンター〉での3Dのグラフィティのエキシビジョンで、サポートとして盛り上げていたワイルド・バンチを見たのだ(※動画)。

「ウォルヴァーハンプトンにはブレイク・ダンスがあった。ロンドンにはグラフィティーがあった。でもブリストルには間違いなくパーティーがあった。全てのパーティーのシーンというのはブリストルから始まったんだ」とゴールディーは力説する。

一方で、ゴールディーとウォルヴァーハンプトンの友人たちはその夜、ブレイク・ダンスで他を圧倒するキレを見せていた。ブリストルのオシャレ通たちを棒立ちにさせた。「僕らには動きがあったが、彼らには最新流行のモノがあった。ネリーはロング・ヘアーに羊の皮ジャン、マイロは究極のBボーイ。彼らは何でも持っていたよ。ファッションのこととなれば、誰も彼らにはかなわなかったから、最高に憎たらしかったよね」と語る。

デイヴ・ドレルはこう認める。「1985年頃、〈ワグ〉でDJしてもらったことがあったんだ。今でもよく覚えているよ。みんなで羊の皮ジャンを着てDJブースに群がっていた。誰よりもかっこよく見えたね。ロンドンから来て、そんな期待していなかった僕にとってはショックだったよ」。

ニューヨークや日本への旅行がワイルド・バンチのスタイルにハクを付けていった。彼らに独特のBボーイ・ファッションを創らせたのだ。初めに日本へ行ったのはマイロだった。1985年、ブリストルの古くからの友人であるネナ・チェリーのDJとしてだった(※8)。

「日本ではとにかく色んなものを手に入れたよ。僕は着くなりネリーに電話してこう言ったことを覚えてるよ。『今すぐそこを出ろ、日本にはなんでもあるぞ』ってね。僕は黒い皮のコンバース・オールスターとかを買って持ち帰ったんだ。みんなの度胆を抜いてやりたくてね」とマイロは語る。

続けて、マイロと共にネリーも日本を訪れ、その後ワイルド・バンチとして1986年の4月に日本ツアーを行なった(※9)。マイロはその旅をよく覚えている。「その頃はクルーだった。人生の中でも本当に素敵な時間を過ごしていた。お金も手に入れ、買い物しまくって小物を沢山持ち帰った。3Dがホーム・シックになって僕らを置いてどこかへ行きかけたということが1回あったよね。それでも僕らはなんとかやっていた」。

jam海外旅行とは別に、1986年は様々な形でとにかく色々なことが起こった年だった。〈ダグ・アウト〉はライセンスを失くして営業を停止、3年続いたワイルド・バンチのレギュラーにも終わりがやってきた。もっと重大なことに、マイロとネリーはブリストルを離れ、ロンドンへと移った。それぞれの生活はばらばらに流され始め、1年後にはワイルド・バンチは解散することになった。

「実際、1986年には終わっていたんだ。みんなで日本へ行って、そこからステップ・アウトする予定だった。帰国してみると、グループでやっていくにはお互い限り無く遠くへ行ってしまったように感じたんだ。ネリーとマイルスはロンドンへ行ってしまって、残った僕たちはブリストルに居座った」と3Dは語る。

皮肉にもこの瞬間、ワイルド・バンチは〈アイランド・レコード/フォース&ブロードウェイ〉のおかげで、サウンド・システムからレコーディング・アーティストとしての脱却をはかるチャンスを手にしたのだった。

ロンドンでは、マイロとネリーはカムデンのデランシー・ストリートにあるフラットをシェアして住み始めた。すぐにロンドンのクラブ・シーンで名を馳せるようになった。ちょうどその頃、レコード会社からの契約の話が浮上したのだ。マイロによれば、すべてはネリーのおかげだとのことだ。「今の彼を見たら分かるだろ。彼はやり手なんだ」。

彼らは以前にもエレクトロ・ヒップホップのインストをダブ・プレートでプレスして、自分たちのセットでかけていたことがあったが、ロンドンのオールド・ストリートでのレコーディング・セッションはフル・クルーによるものとなった。「実はスタジオに入ったのはそのときが初めてだったんだ」と3D。「それは今までやってきたやり方とはまったく異なるものだった。正確に録音され、プリ・サンプラーや基本的なドラム・マシーンを用いて行なわれた。かなりシンプルなものだったけど」。

THE WILD BUNCH - Tearing Down The Avenueこれらの機材を使ったものの中から、当時の流行を考慮して、ファースト・シングルのA面には「ティアリン・ダウン・ジ・アヴェニュー」が選ばれた。ウェスト・カントリー経由でデフ・ジャム時代のボンゾ・ヒップホップが全盛のときだった。「僕らは純粋にヘヴィ・ヒップホップなレコードを作りたかった。当時808のキック・ドラムがよく使われていて、僕らはそれを出せるだけ大きな音で使ってやろうとしたんだ。結果、いいものはできなかったんだけどね」とマイロは笑う。

B面の曲はワイルド・バンチの名を歴史に残すものとなった。それはマイロがコンセプトを作ったもので、バート・バカラックの「ザ・ルック・オブ・ラヴ」をヘヴィ-・ヒップホップのビートに乗せ、歌は後にマッシヴ・アタックに参加することになるシャラ・ネルソンだった。

「当時、僕はDJで、ブレンドはよくやっていたことなんだ。デニス・エドワーズの『ドント・ルック・エニイ・フューチャー』とLLクールJの『アイ・ニード・ア・ビート』を混ぜたり。スムースなミックスに僕のラフを混まぜてみたり。まさにそこからコンセプトが生まれたんだ。ラフなヒップホップ・ビートに歌を乗せたり。そのダブ・プレートは雰囲気があった。それに、もともとその曲が大好きだったんだ。特にディオンヌ・ワーウィックのヴァージョンが」と彼は語った。

デイヴ・ドレルはその日、ロンドンのオールド・ストリートのスタジオでレコードのプレス・リリースを書き上げてしまった。彼は自分の目の前で起こっていたことにひどく衝撃を受けたようだった。

「僕はもうすでに彼らがショウでやってきていたことや、すべての虜になっていた」。彼はこう振り返る。「僕はただスタジオに座ってずっと考えていた。『これはイギリス初の最高のヒップホップ・レコードになるに違いない』と。そして見事、彼らはそれをやってのけたのだった」。

THE WILD BUNCH『FRIENDS AND COUNTRYMEN』しかし、世界的に火が着くというよりも、そのレコードはどこかにまぎれこんでしまった。「ティアリン・ダウン・ジ・アヴェニュー/ザ・ルック・オブ・ラヴ」は、もともとアメリカのプロモ・シングルとして限定でプレスされたが、正式リリースはなされなかった。その後ずいぶん遅れて、ワイルド・バンチのシングルは1987年にやっと製品化された。A面はちょっと印象の薄れる「フレンズ・アンド・カントリーメン」に差し替えられた。もうその頃には勢いもなく、レコードは話題にもならなかった。「〈フォース&ブロードウェイ〉はちょうどミーシャ・パリスと契約したところで、彼女のプロモーションばかりに一生懸命だった。彼らは僕らがやっていたことを理解してくれていなかったんだと思う」とマイロは語る。

商業的な失敗の一方で、とりわけ地元ブリストルでは、ワイルド・バンチの音楽仲間たちが「ザ・ルック・オブ・ラヴ」を無視するわけがなかった。ロブ・スミスとレイ・マイティは、レストリクションというレゲエ・バンドをやっていたころからワイルド・バンチがサポートしたこともあって、彼らのことは知っていた。今はスミス&マイティと呼ばれているこのデュオは、マイルスのブルー・プリントをヒントに、バート・バカラックのヒップホップ・ヴァージョン、「エニィワン」と「ウォーク・オン・バイ」の2つのチャートヒットを出した。まさにその後、イギリスでは似たようなヒップホップ・ソウル・トラックが手掛けられることとなった。リズ・Eをフューチャーしたフレッシュ・フォーの「ウィッシング・オン・ア・スター」もそのひとつ。DJクラストをメンバーに含むもうひとつのブリストル・クルーだ。その結果、ブリストル・サウンドとして僕らが知ることとなった。

この時点で、ワイルド・バンチは事実上終わっていたが、メンバーたちの活動は様々な方面で頭角を表していた。マイロは依然、日本を旅することを楽しんでいて、行ったり来たりしてDJやモデルをこなしていた。DJ KUDOや藤原ヒロシの作品に参加したりした。日本のヒップホップ・レーベル〈メジャー・フォース〉への「リターン・オブ・ジ・オリジナル・アートフォーム」がそうだ。

THE FACE S2S articleそのころネリーは、ロンドンのソウルIIソウルに参加いていた。カムデンを拠点に活動するサウンド・システムで、ワイルド・バンチとはしばらく前から友達関係だった。ジャジー・Bとの共演でついにイギリスのサウンド・システム経験をレコードの形にするということに成功した。「バック・トゥー・ライフ」や「キープ・オン・ムーヴィン」などのヒットシングルで国際的にも成功をおさめた。「ソウルIIソウル;クラブ・クラシックス・vol.1」メジャーな国際的アーティストたちや、映画音楽など、感心する程のプロデュースを手掛けている(※10)。

DADDY GEE and CARLTON - Any Loveブリストルではダディー・Gが、彼のシングル「エニィ・ラヴ」を1988年の夏にリリースした。シンプルであるが内容の濃い、いわゆるブリストル的音楽、古いルーファスの曲に地元シンガーのカールトンをフィーチャーして作られた。そのトラックはマッシヴ・アタックの名前でリリースされた(※11)。「もともとこの名前はニューヨークのグラフィティ・アーティスト、ブリムが付けてくれたもので、「アンダーグラウンド・マッシヴ」だったんだ、とマイロは語る。「僕はこれはこれでかっこいい、と思ったんだけど、どうにかしてこれを頭文字をとった省略形でT.U.M.A.と読ませたい、って思ったんだ。そこで最後にアタックを付けて、The Underground Massive Attackとしたんだ。結局それが更に省略されて、マッシヴ・アタックとなったわけ」。

そのレコードにマイロは満足だった。「Gがそのレコードを完成させて、リリースできたことに僕は心からかっこいいと思ったし、彼を誇りに思ったよ」と語る。

NENEH CHERRY - Manchild Remixesザ・マッシヴ・アタックの名前は、Gと3Dがマッシュルームことアンドリュー・ヴォウルズと共に活動し始めたときも引き続き使われた。結局はキャメロン・マクヴェイ(※12)というネナ・チェリーのパートナーでマネージャーだった彼が、このトリオを〈ヴァージン・レコーズ〉との契約に持ち込み、そこからは歴史となった、というわけだ。

彼らの名前マッシヴ・アタックはワイルド・バンチ時代からの多くの出来事の上に成り立っている。ワイルド・バンチのころに、シャラ・ネルソン(※13)を「ザ・ルック・オブ・ラヴ」に起用していたり。3Dはとりわけマイロの功績に借りがあると意識している。

「ブリストルで起こった現象、例えば『ザ・ルック・オブ・ラヴ』のように別々のものを一緒にしてしまうなどというのは、彼のアイデアであり、いろんな意味で彼の功績は大きいよ。マッシヴ・アタックは明らかにその手法や基本的な考え、前向きに行こうとする精神は彼によるところが大きい。当時のマイルスの努力やアイデアには感謝しているよ」と3D。マイルスが去ってからしばらくして、マッシヴ・アタックのデビュー・アルバム「ブルー・ラインズ」が1991年にリリースされた。1989年には、マイロはニューヨークへ移住していた。「当時僕はそういった手法でヒップホップをやるということに、イギリスでは受け止められないとおもって、それでアメリカへ行ったんだ」とマイロはシンプルに語った。

マイルスにとってアメリカでの初めての夏、ソウルIIソウルがヒットした。「その年の夏、ニューヨークで彼らが一番ビッグだった。ぼくにとってもっとも重要だったのはそれが本当にいい音楽だったということ。その当時イギリスから発信されていた音楽にいいものはなかったから(ルーズ・エンズを除いては)。とにかくドープでかっこよかった。彼らにはどこまでも行ける可能性があると思ったよ」。

マッシヴ・アタックがその後ヒットしたということについては、マイルスはまったく気付いていなかった。「その後はまったくやり取りもしていなかった。マッシヴ・アタックついては何ひとつ知らなかったんだ。それは本当にまったく。トリッキーがビッグになったってことも。僕の中では彼はまだ子供で、よく僕らの荷物運びを手伝ってくれていたっけなぁ、って感じなんだけどね。1997年まで、彼らの音楽もまったく聴いていなかった。聴こうともしていなかった。その後、僕が一緒に活動したことのある日本人から彼らのCDをもらったんだ。でも、僕はそれを聴いて満足だったよ、だって彼らは僕の兄弟分だからね」と語る。

ブリストルにはワイルド・バンチの思い出は殆ど残っていない。〈ダグ・アウト〉はとっくの昔になくなってしまったし、皆でビリヤードして、勘定をつけにしていた、あのグラフィティで飾られた〈スペシャル・K's〉もない。パーク・ロウのそばにあった、ビンテージもののワイルド・バンチのグラフィティの一部、何度となく上から消されそうになりながらも何年もの間勇敢に戦ってきたが、90年代のあるとき、ついに破れて、消えてしまった。

THE WILD BUNCH

現代のイギリス音楽の歴史の中でクルーの英雄的な功績は今も人々の思い出として生きている。「最近は、僕がブリストル出身なのかとよく質問を受けるよ。だから僕はブリストル経由ウォルヴァーハンプトン出身なのだと答えているんだ」とゴールディーは語る。

「でも僕らはいつだって過去と現在を振り返ることができるし、Bボーイの観点から僕たちが何をなし得てきたのかを讃えることはとても美しいことだと思う。それはただ単にアメリカでなされて来たことの模倣ではないし、UKの個性として捉えることができる。皮肉なのは田舎の少年たちがすべてを制覇したということーーワイルド・バンチは地方でも輝いていたのだ。
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