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BRISTOL - MUSIC & CULTURE

 
 

THE WILD BUNCH - The Story Of A Sound System #1



DJ MILOが1980年代当時のプレイリストを再現して制作したMIX CD『THE WILD BUNCH: THE STORY OF A SOUND SYTEM』のブックレットに掲載されているテキスト邦訳。(翻訳:氏家美和子)
『STORY OF A SOUND SYSTEM』 『STORY OF A SOUND SYSTEM』

ワイルド・バンチを取り巻き続ける魅力を理解することは決して難しいことではない。80年代のワイルド・バンチ全盛期のどの写真をとって見ても、ブリストルの土台ーーそこにはブレイキング、サウンド・システムとヒップホップ・クルーが、そして若者たちの初々しい顔に取り囲まれたターンテーブルがあった。それらは90年代に影響力の強い、革新的な音楽を作り上げるに至った。そこにはネリー・フーパーがいた。またワイルド・バンチのメンバーだったダディ・Gと3Dと共に、見事に幼いルックスのマッシュルームことアンドリュー・ヴォウルズの姿もあった。彼らはその後マッシヴ・アタックを結成することになる。その背景には、ミュージシャンとして開花する直前のトリッキーやロニ・サイズ、クラストの姿もあった。しかし、そこにはひとりの男がいた。常に活動の中心にいて、たいてい重要な位置を占めていた。彼の存在はそれほど容易なものではなかった。音楽の歴史のどのいい時代にも出発地点はある。ブリストルの場合、それはワイルド・バンチであり、その男の名前はDJマイロこと、マイロ(マイルス)・ジョンソンだった。

MILESマイロは「ブリストル・サウンド」として知られるようになった、ほどよい評判を勝ち取り、単にそれを生み出した者として多くの人に信頼されている。一方で他のミュージシャンたちが彼のアイデアを発展させ名声を得て、数百万ポンドの富を築いた。マイロは不在でありながら、依然異彩を放っている。

マイロは彼の記憶の中で、ワイルド・バンチという時代を特別な場所に大事に持ち続けている。いまや音楽マネージャーとして成功したデイヴ・ドレルは親指を立てて喜んで語った。「彼はワイルド・バンチのハートと魂そのもの。彼はまるで血管のようにグループをまとめていた。Gがトースティングをし、3Dが白いMCで掛け合う。それをネリーが壊そうとしているかのようにも思われた。そんな中でマイロはいつもターンテーブルを見つめていたよ」。

実際、マイロはいなくなったわけではない。移住し続けていた。彼の足取りは常に注目されていた。1988年にニューヨークに移り住んでからは、現在まで彼の奥さんと幸せに暮らしている。イギリスを離れて以来、以前の音楽仲間とは連絡を取っていなかった。彼が何を残したか、彼はその多くに気付いていない。ただ単に彼の人生を歩んでいるだけ。ワイルド・バンチ周辺の伝説によって少しばかり混乱されている。彼らの歴史の中でマイロが果たした役割を、ワイルド・バンチへの愛情にもかかわらず、それはブリストルの遠い昔の出来事だと振り返る。

60~70年代の音楽革命の間、蚊屋の外だったブリストルは、80年代に入ると当時の自分たちの音楽の面白さに気付く。イギリスの他の地方都市同様、パンクが街中を席巻し、地元のバンド・シーンが一気に活気づいた。ポップ・グループを先頭に、地元バンドの活躍でブリストルがロンドンにぐっと近付いた。じきにロンドンのラドブローク・グローヴを拠点にするポスト・パンクの中枢アーティストとの誇れるつながりが持てたのだ。その当時のもうひとつの鍵となったのがレゲエだ。レゲエもまたブリストルでは十分に浸透していた。街が持つアフロ・カリビアンのコミュニティーに感謝すべきところが大きい。そしてソウルやファンクのシーンがブリストルの〈グラナリー〉や〈ロケイモ〉、〈トップ・キャット〉、〈ベイリーズ〉といったクラブで盛んになった。バンドではスリッツやパブリック・イメージ・リミテッド、クラッシュなどがレゲエやダブ、ディスコやファンクにも目を向け、ポスト・パンクの音楽のパレットに広がりをもたらした(※1)。結果、ブリストルの若者の耳に特異なセンスを与えることとなった。

1981年、19歳のマイロ・ジョンソンはすでにジャンルを超えたレコード・コレクションを増やしていた。そして同時に様々な人たちとの付き合いがあった。名目上はジャズ・フュージョンのファンで地元のファンクDJセイモアのフォロワーでもあった。が、実際はマイロの音楽的志向は単なるジャズ・ファンクの域を超えていたのだった。ウィルバート・ロングマイヤーやロイ・エアーズのレコードと並んでジョイ・ディヴィジョンやヤング・マーブル・ジャイアンツ、その他、彼の幅広い音楽範囲のものが自然に置かれていた。ブリストルでの教育システムがこの幅広いアプローチを育てたといえる。アフロ・カリビアンの血を持つマイロは、モンペリエという黒人優位のブロックで育ったが、通っていたのはコサムという白人街の地区だった。当時のブリストルは学校の門外では、まだ人種分離が残っていた。しかしマイロは学校内で他の生徒たちと同様、友達付き合いや人種を超えた音楽の趣味を形成していったのだった。

「学生時代、ダンカンという友達がいた。彼はパンクのレコードを一通り持っていて、いつもかっこいい服装をしていた。しょっちゅうロンドンに買いに出かけていた。僕はそれに影響を受けて、それでその手のものが好きになったんだと思う。ノーザン・ソウルだろうとパンクだろうと、彼はなんでもその中の名作を持っていたんだよね」とマイロは語った。

マイルスの社会生活も同様に多様だった。ブリストルの変化に富んだポスト・パンクの音楽シーンのおかげで、ブリストルFCのテラス席では“顔”だった。昼夜観戦することができるという特権も得た。「当時の親友はクロード・ウィリアムス(ウィリー・ウィー)。彼と彼の兄弟は誰でも知っていた。だから自然と僕も出かける先々で、あらゆるバックグラウンドを持つ人たちと知り合うことができたんだ。気取り屋から殺し屋まで。まったく違う分野の、出逢うきっかけもないような人たちとも知り合うことができたんだ」とマイロは語った。

マガジンとバウハウスが出たブリストルのギグ(※2)で若きネリー・フーパーとマイロが出逢う。マイロはその時のことをこう回想する。「とにかく最高だったよ。そのギグに行ったんだけど、それは生涯一番の最高なギグだった。バートン・ヒルという労働者階級のエリアで開かれた。当時はパンクスのエリアとしてよく知られていた。みんなが俺のことを知っていた。サッカーやなんかで、すでに名を知られていたからね。とにかく、若いパンクスたちでいっぱいだった。彼らは小さなマスコットといった感じだった。ツンツンヘアーや皮ジャケットは格好良く見えた。彼らはかなり若かったよ。僕に近寄り、話し掛けてきた。その中のひとりがネリーだったんだ」。

PIGBAG『DR HECKLE AND MR JIVE』ふたりはよく一緒に出歩くようになり、じきに強い友情を築いていった。ふたりはほんの少しの間だけ一緒にバンドを組んだ。1982年、マイロが数カ月ブリストルを離れていた間(※3)も、ネリーは連絡を取り合っていた。ちょうどそのころ、ネリーは音楽業界で初のブレイクを経験していた。それはチェルトナム出身のバンド、ピッグバッグでのパーカッショニストとしてだった。ピッグバッグは代表作「パパズ・ゴット・ア・ブラン・ニュー・ピッグバッグ」の爆発的ナショナル・ヒットを楽しんでいるときだった。ネリーはバンドのメンバーとして1982年4月放送の『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演もしている(※4)。

いない友人の功績を再び取り戻そうと、ネリーはマイロの復帰を強く主張した。共に何かをすることで今までの努力を更に新しいものにしてくれるだろうと。しかし、また新しいバンドを始めるよりも、ふたりはブリストルの友人宅でのハウス・パーティーやDJをするようになっていた。この新しい試みでパートナーとして加わったのがダディ・Gこと、グラント・マーシャルだ。

DADDY G「グラントと出逢ったのは、ブリストルの〈パラダイス・ガレージ〉というパンキッシュなファッションの服を売っていた店だった。僕は友達と一緒だった。とにかく僕らはGと知り合って、彼は自分のフラットに僕らを迎え入れてくれた。彼のレゲエ・コレクションをチェックしたり、ハッパをやったりした。僕は吸わない主義だったけど、彼のレゲエのレコードが聴きたかった。そこから友達としての付き合いが始まったんだ」(※5)。

SPECIAL K当時のマーシャルのフラット・メイト、スペシャル・Kこと、コスタ・フィアッカスも友達だった(※6)。彼はワイルド・バンチの運転手をすることもあった。じきに彼は〈スペシャル・K's〉というカフェを始めた。後にワイルド・バンチの本部となる場所である。多くのハウス・パーティーのホストを務めつつも、キャンベル・ストリートのフラットがアンオフィシャルなワイルド・バンチの本拠地となった。

3人組の初期のパーティーは、ブリストルの中でも裕福な人たちが住む、トレンディーなクリフトンというエリアでもっぱら開かれていた。マイロによると、発展途上の時期はターンテーブルは1台で、サウンド・システムも家庭用のハイファイ・ステレオを使っていたという。にもかかわらず3人のプレイ・リストはまったく大胆なものだった。「僕らはニュー・ウェイヴやパンクをかけ始めたんだ」マイルスは振り返る。「Gはレゲエも合わせて持ってきてたね。僕はジャズ・フュージョンを一緒に持って行ってた。その頃好きだったパーラメントやカメオなんかも。本当に色んなタイプの音楽のミクスチュアだったんだ」。

パーティーはあっという間に有名になり、音楽と同様、幅広い客層を引き寄せた。そのことはワイルド・バンチの名を轟かせた。マイロはこう振り返る。「僕らはクリフトンでパーティーをやっていたんだけど、それが手狭になってきたんだ。僕らがいい選曲してるのを知って、セント・ポールズから来るやつが増えてきたんだ。それで彼らはちょっとしたビジネスもはじめることとなった。彼らこそが僕らの名付け親なんだ。パーティーによく来ては、ワイルドなやつら、ザ・ワイルド・バンチ!!ってね」。

このパーティーや、街のあちこちでDJしてきたおかげで、1983年までに新たに命名されたワイルド・バンチはブリストルの音楽シーンを築いてきた。しかし彼らのかける音楽は変わり始めていた。前年、ラップがエレクトロの中で開花したのだ。アフリカ・バンバータの「プラネット・ロック」やマン・パリッシュの「ヒップ・ホップ・ビー・バップ(ドント・ストップ)」のようなトラックがたくさん発表された。しかし、それでも彼らのプレイは幅広い内容のままだった。アメリカのヒップ・ホップを多く取り入れながらもワイルド・バンチらしさを感じさせた。

「ヒップ・ホップは僕を確実に捉えたね。インディペンデントなシーンを持っていたから。ある意味パンクにも近いところがあるというか。その音楽も好きだった。スニーカーもファッションも」。とマイロは語る。

のちにニューヨークや日本へ旅することになり、ワイルド・バンチはBボーイ・ファッションを取り入れた。彼らのスタイルにルックスの要素を取り入れたのだ。誰も持っていないようなヒップホップのレコードを手に、ブリストル・ボーイズは既にその道でマスターとなっていた。

「何が僕らにキレを与えたかって? ただ自然に僕らはかっこいいと思うことをやってただけだったよ」とマイロは言う。「ぼくらはかっこ悪いまま留まっていたくはなかった。ただ良いレコードが欲しかっただけ。常に良いものを求めていただけなんだ。流行っているものだろうと、地味なものだろうと、僕らがいいと思ったものをプレイしていた。ネリーも僕もそんな感じだった。そんな友達を持ったら、プレイするにしても曲を作るにしても良いレコードを持たないわけにはいかないからね」。

トリオはすでにテクニクスのデッキを2台持てるまでの富を築いていた。そしてついにワイルド・バンチの素晴らしいレコード・コレクションの組み合わせは、ブリストルのライバル集団、2BadやUD4、シティー・ロッカーズ、FBIクルーに引けを取らないだけでなく、イギリス国内の他のクルーたちとも張り合える程までになった。

DADDY G chartしばらくして、ワイルド・バンチは、UKのヒップホップコレクター達の間でほとんど神格的なステイタスを獲得し、コレクターたちは『ワイルド・スタイル・ブレイクス』というヒップホップの映画『ワイルド・スタイル』のために作られたというインストのインタールード・レコードを欲しがった。そのことからも分かるが、それほど手に入らないものだったということだ。そして多くの人が単純にそれは存在しないものだと結論付けた。実際のところは、ネリーがオリジナルのフィルムをニューヨークへ旅したときに手に入れていた。「彼がそれを持って帰国したときは、誰もそのことを信じようとはしなかったよ。けど、僕らはそれをもとに何枚かプレスしたんだよね。」とマイロ。

REVOLVER logoブリストルの地元勢を尻目に、圧倒的にぶっちぎりで先頭を行っていたが、ワイルド・バンチには秘密兵器があったのだ。それはダディー・Gの昼間の仕事、街の主要レコード店〈リヴォルヴァー〉に感謝せざるを得ないところが大きかった(※7)。「そりゃあワイルドだったよ。他のDJクルーたちがよく文句言ってたものさ。いい曲はあっという間に隠してしまって、僕ら以外の人が手に入れることができなかったからね。もしくはDJじゃないとわかっている少年たちだけには売っていたけどね。おかしいだろ」とマイロは笑う。

しかし、ひとりの若い客とGは友人関係を持つこととなった。マッシュルームはこう振り返る。「当時僕は15歳だった。ブリストルのバートン・ヒルとセント・ポールズの中間に位置するセント・ジョージにある学校に通っていた。校門の外に車を止めて爆音でニュークリアスの曲やBボーイズの「トゥー・スリー・ブレイク」をかけているやつらがいた。僕は「なんだよこれ?!」って感じで、とにかくこの音楽を手に入れなきゃって思ったんだ。それでワイルドなやつが働いてるっていう〈リヴォルヴァー・レコード〉に辿り着いたわけさ。で、その男の名前がダディー・Gだったんだ。僕らはしばらく話をして、「もし、こういう音楽に興味があるんならここへ来て俺たちをチェックしな」と言った。店中にそのワイルド・バンチのステッカーが貼られていたよ。で、その誘いに乗って〈ダグ・アウト〉へ行き、ネリーとよくつるんでいたんだ。彼は僕に残りのメンバーを紹介してくれて、最終的には僕もそのクルーに仲間入りすることになった」。

ワイルド・バンチはブレイクスやビーツを追求し、1983年にヒットした映画『ワイルド・スタイル』でグランドマスター・フラッシュが見せたボブ・ジェイムスの「(Take Me To The) Mardi Gras」の2枚がけにインスパイアされた。「ネリーは僕らを『ワイルド・スタイル』のUKプレミアに強引に連れて行ってくれたんだ」。マイロは言う「とにかくすごかったよ。キッチンでのフラッシュを見終わったあと、彼がやってきたことは単純に明瞭だった。僕らがビートに対して持つ愛情はそこから来ていたんだ、と思った」。

一方、ニュートラメントやマスターマインドといった他のクルーたちも、その素晴らしいレコード・コレクションでワイルド・バンチからリスペクトされていた。彼らもまた伝説的ビート発掘者として知られるようになった。「僕らはよくソーホーの中心の倉庫にあるようなレコードからいくつものビートを手に入れた。マジック・ディスコ・マシーンの「スクラッチン」というレコード(アフリカ・イスラムのテープからとったクラシック・ブレイク)を50枚持っている店とかね。面白かったのはティム・ウエストウッドが〈ワグ・クラブ〉で始めたヒップホップ・コンペティションにエントリーしたこと。そこで僕らがロンドンのDJやマニアたちに投げ付けてやるとやつらは盛り上がり、『どこで手に入れたんだ!』と。僕らのレコードは彼らの本拠地で受け入れられ、僕らは1位を獲得した」。

PART2へ続く
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ツイッターから流れこのBeezerの写真(に少し手を加えました)に。みんなホイッスルを首から下げてるし、とかそういえばMushroomにとって最初のWild Bunchはステッカーだったなとか思い出したり。ひとりの若い客とGは友人関係を持つこととなった。マッシュルームはこう振り返る。「当時僕は15歳だった。ブリストルのバートン・ヒルとセント・ポールズの中間に位置するセント・ジョージに...
2017.04.16 10:14
 
 
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